「足るを知る」・・・あまりにも有名な言葉なので、説教じみたことを記しても仕方ありません。
「足るを知る」は、大乗仏教にも、老子の考えにも出てきます。
そこまで普遍的なものなのでしょう。
最近、タイのプミポン王が国民に向かって一番強く言われているのは、この「足るを知れ」です。
タイも金銭経済の渦の勢いが強まり、昔に比べ“カネ、カネ”への希求が目にあまるようになっているからです。
その分、人々の心がすさんでくるのを国王は心配しているはずです。
でも、「足るを知る」は、せいぜい“ほどほどにしておけよ、欲張りすぎるなよ”くらいにしかとらえられていません。
それはそれで良いのでしょうが、小乗仏教の教えにはもっと積極的な意味があるようです。
それは、人間の生き方につながり、また文明に対する徹底的な批判にもなっています。
そもそも、私達が学校で習った「文明」とは、一体何なのでしょう?
明治期の文明開化に代表されるように、物質的に豊かになり、生活が便利になることでしょう。
この状態に対して、誰が付けたか「文明」などという文化の香りを吹き付けたばかりに、「文明」がまるで普遍的に進んだことのように勘違いされてきたようです。
文明は、確かに物質の量を増やし、生活を豊かにするでしょうが、それ以上のものではないですし、副作用も伴います。
ここタイで暮らしていると、日本はあこがれの国です。
もちろん、漫画やゲームといった文化面のあこがれもありますが、物質的な豊かさに対するものが多いです。
文明が進んだばっかりに失われたものがどれだけ多いことか、ここ北タイのいなかの風に吹かれていると感ぜざるを得ません。人と人とのつながり。助け合い。鳥の声、花の香り、そして吹く風などっも・・。
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「足るを知る」に戻ります。
小乗仏教(上座部仏教)の聖典「法句経」に「知足は第一の冨なり」とあります。
小乗仏教の本家、スリランカにこういう話があるそうです。
青年が二人海で魚をとって売っていました。ところが二人で一匹しかとらない。
なぜ2匹捕らないのか聞いてみると、1匹で二人の1日の暮らしに十分だからということです。
魚は海で生きているのだから、余分に取る必要はないということです。
このエピソードは、強烈な文明批判です。
今どきのエコロジーの話にもつながりますね。
そもそも縄文時代には人殺しの武器はなかったということです。
なぜか?
余分に物を取って、蔵に収めることがなかったからだそうです。
弥生時代には、物を余計に取り、蔵に収めるようになる。
そこから、猜疑心、盗難、殺し合い、政治、法律作りなどが生まれたということです
(もっとも蓄えることによって、余った時間を人間は勉強できるようになったのでしょうが・・)。
小乗仏教のパーリ経典には、どうやって社会が壊れていくか説明している箇所があるそうです。
「人間が足るを知るということを忘れたとたん、全てが崩れていく」ということです。
足るを知らないと社会は崩れていくというのは、強烈な文明批判、警告でしょう。
タイでも、金銭経済に振り回されるようになると、当然、犯罪、家族の崩壊等、文明進歩における副作用が強まってきています。
一方、日本でも、社会における助け合い意識の後退、
お金で何でも買えるといった思い上がりの妄想の蔓延などが増えています。
ことに我が国の場合、「負け組」とか「下流社会」とか思いやりのない言葉が平気で流され、人々の社会意識を混濁させ、被害者意識を助長させ、ほんとうは物質的には満たされているはずなのに、こんどは、社会的に認知されていないという、心のうつろさが広がり、これが意地悪、憎しみ、犯罪の起因になっているという、派生的な副作用も見られます。
「閉塞社会」と言われますが、閉塞されているのは、社会ではなく、人々の心ではないかと思われます
(その点、タイの方がまだ人々の心は外に開かれています)。
「足るを知る」・・・単に物質的なものに対してではなく、心の満足の足るを知る、私たちの課題かなと思われます。