今こちらチェンマイではまっている大河ドラマ「篤姫」の第23話に「器くらべ」というのがありました。
将軍の後継者にどちらを選ぶべきか、篤姫らしく、自ら両者に会ってみるというくだりです。
人生、齢を重ねると、いろいろな人に出会い、いやでも“人間の器”を感じるようになります。
中庸を重んじる仏教において、人間の器は、柔軟な性格であれと、説いています。
でも言葉は難しいですね。柔軟な器というと、いろいろな相手に合わせて、頑固にならず、柔軟に対処せよと取れます。それは、いいことですが、こんどは自分は何者なのか、自分を見失い、ただ周りに追従する器ではないかとなってしまいます。
仏教は、何事に対しても自由であれ、と教えています。ただし、芯のない自由は不自由につながるとも、説いています。自由で柔軟なのはいいのですが、自分というものを持っていないとただ流されるだけとなります。
自分を持ちながら、他に対して柔軟に接することができる、「柔軟な器」とは、いわば「内剛外柔」といったところでしょうか。
人と接していると、「あの人はどうしてああなんだろう?」
「なぜ、あんな振る舞いをするのだろう?」
「どうして気がつかないんだろう?」
「私なら絶対あんなふうにしないのに・・・」と言ったケースが日常茶飯事ですね。
そして、それが、怒りにつながってもいけませんね。
だいたい、「自分なら・・・」という前提が間違っています。
人は生まれも育ちも様々・・、
自分と同じ思考回路のはずと思うのは、間違いのはじまりですね。
タイ人と接していても、最初はよく思います。
「なぜ、こんなことが分からないんだろう?」
「なぜ平気で遅れてくるんだろう?」「なぜ、お礼を一言も言わないんだろう?」・・・
これは、また文化、生活習慣の違いからきていることが多いです。
これも怒ってはいけません。
そんなことで腹を立てたら、 その後の建設的な国際交流は望めませんね。