OISHIグループは、タイの企業家タン氏のアイデアでタイに広まったもので、
日本資本とは関係ない。
今では、売上げ80億バーツのタイの大企業である。
最初にタイでOISHIブランドのレストランや飲料を見かけたときは、
日本の物まねとバカにしていた。
しかし、今やいずれもおいしく感じる。
チェンマイの「しゃぶし」(しゃぶしゃぶ寿司ビュッフェ)は
エアポートプラザとナイトバザールのパンティップの2箇所にあるが、
休日ともなれば、1時間待ちは普通だ。
ひとり、1時間15分で290バーツするが、タイ人の若い人で一杯だ。
このOISHIグループを作り上げたのが、中国系タイ人の
タン・パサコンナティー氏。52歳。
彼の立志伝が、バンコク・ポスト紙の月曜日の「LIFE」に載っていたが
劇的で面白いので紹介しておこう。
タン氏は、マレーシアのペナンで中国系の家庭に生まれたが、
子供の頃は友達が付き合ってくれなかった。
彼は食べ物も食べずお金をためて、友達をパーティに招待したが、
誰も来てくれなかった。死にたくなり、社会は自分を必要としていないと思ったと言う。
でも、いいことも悪いことも経験だ。
中学を卒業後タイのチョンブリに家族は移ってきたが、
彼は17歳のときに高校を中退し、仕事を求めてバンコクに出てきた。
月に700バーツでどんな仕事を与えられても嫌わず、
経験をつむ良い機会ととらえ、朝早くから夜遅くまで働いた。
おかげで21歳で管理者となった。
のち、チョンブリに戻り、念願の自分のビジネスを起こす。
商業ビルの前の小さなスペースを借り、新聞スタンドを始める。
バス停、ホテル、マッサージ屋の前だったので、よく売れ、
全ビルを買い取り、本屋とした。
隣接のビルも買い取り、コーヒーショップを開き、さらに
パン屋、レストラン、写真屋と広げた。
ここまではうまく行ったが、1997年、39歳のときに大きな失敗をした。
不動産業に出たのだが、折からのバーツショックで、1億バーツの負債を
抱え込むことになった。
資産を売却し、銀行に分割払いを頼むなどして、なんとか
生き延び、ギブアップしなかった。
彼は、いろいろなビジネスを経験したが、
やはりバンコクでフランチャイズ・ビジネスを展開したかった。
そして、ウエディング・スタジオを開く。
これが成功し、20のウエディング・スタジオの株主となった。
OISHIの事業を考えたのは、小売りトップのセントラル・グループの
会長、バンチャイ氏がアメリカでの日本食ビュッフェの話をしているのを
聞いたのがきっかけだという。
1999年、OISHIレストランは、彼のイマジネーションから生まれた。
OISHIグループは、現在5,000人の従業員を抱え、
120のフランチャイザーを持っている。
OISHIの甘い緑茶など、最初は飲めたものではないと感じたが、
今ではタイの無糖緑茶よりもうまいと感じてしまう。
この成功にもかかわらず、タン氏は、昨年OISHIの持株を全部売却し、
経営から身を引き、新しい事業に乗り出した。
事業といってもビジネスではなく、社会活動だ。
フェイスブックにページを開き、
9人のチャレンジャーを集め、企業家プロジェクトに乗り出した。
自分は中学しか卒業していないが、いろいろとオポチュニティーを
与えられたことが、今日の富をもたらした。
今後は、社会と人々にこのオポチュニティーを提供したいというものだ。
同時に基金を作り、チョンブリの学校の改築を助け始めている。
子供の頃、誰も相手にしてくれなったタン氏だが、
今ではフェイスブックを訪問するファンは10万8千人に上るという。
これからは、社会への還元が彼の志だ。
たくましいなあ。
就職難の日本、これを逆手にとって起業をする若者が増えないかなあ・・・。