第1回目は、インドへ来たアーリア民族とインドでカースト制度ができたことの
因果関係についての質問です。
「不思議な国インドの文化・歴史に関する3つの質問 2012-8-29」
http://uccih.exblog.jp/16711276/
私からの質問:
北のインド人はアーリア系ですね。
チェンマイでも、西洋風の風貌のインド系のタイ人を割りに目にします。
アーリアと言うと、ドイツの民族浄化思想と言う偏った面しか思い出しませんが、
このアーリア系の文化とインドのカースト制度はどうつながったのでしょうね?
ゲルマン文化圏にも、私が知らないだけで、こういったカースト思想はあるのでしょうか?
ジプシーはおりますがね。それとも、インドのカーストの発祥は、
アーリアとは無関係で、インドで独自に生まれたものなのでしょうか?
分かったら教えてください。
Sさんの答え:
同じアーリア人でも、移住先での環境・民族・文化・宗教に遭遇し、
それぞれの地での適合方法が、自然に、異なったようです。
人間は、社会的動物なので、進出先での文化や人間とどう対応するかによって
異なるようです。
インド、イラン、ドイツ、ギリシャ、ローマ、北欧へ移住していったアーリア人には、
インド・ヨーロッパ語族共通時代に由来する古代アーリア人としての豊かな口承伝説が、
共通してあります。
それでは、インドに行ったアーリア人は、何故、カースト制度を作り、
イラン、ドイツ、ギリシャ、ローマ、北欧ではそのようなものを作らなかったか。
移住先での抵抗勢力の存在の程度や、その環境・民族・文化・宗教に
遭遇し、影響により、対応が違っていったようです。
インドへ行ったアーリア人は、強力な抵抗勢力としてドラビダ人の存在があり、
硬軟両様の対応を迫まられた。
元々、世界4大文明の発祥の地、北インドには、インダス文明があり、
モヘンジョダロ遺跡は、ドラビダ人によって、作られていた。
インド・アーリア人は、そういう実力のあるドラビダ人への対応に頭を使った。
一つは、同化政策として、婚姻政策で取り込む手法と、もうひとつは、バラモン、
クシャトリア、バイシャ、スードラといったものを、武力・権力・財力をかざして、
身分差を固定化することで、秩序ある社会的な安定制度で統治する手法を
取ったようです。
丁度、徳川幕府安定の為に、既得権の武士の身分による地位保障を担保する為に、
士農工商を押しつけたような感じでしょうか。
一方、イランに定住した、アーリア人も、古いインド・ヨーロッパ語族共通時代に
由来する豊かな口承伝説を伝えていた。
それは、「太陽や天空を神々と捉え、火の崇拝などの儀式を行う」といった宗教思想で、
イランに定住したアーリア人と、他のギリシャ、ローマ、北欧へ行ったグループと
共通する宗教を持っていたと考えられています。
又、インドへ行ったアーリア人の作った『リグ・ヴェーダ』に残された
古インド神話とも共通点が多いとされ、
ダエーワ(デーヴァ)やアフラ(アスラ)など神名、神格にも共通点が多くみられる。
イラン・アーリア人は、インド・アーリア人が直面したようなドラビダ人という
獅子身中の虫のような生存に脅かされる不安定な強力な勢力が存在していなかったので、
カースト制度のように抑圧的社会制度が、特に求められなかったと考えられます。
イラン・アーリア人の神話は、後にゾロアスター教の聖典『アヴェスター』、
特に神々への讃歌である『ヤシュト』として保存され、
この古代アーリア人の宗教、話をベースにしながら、
ゾロアスター教として、より高等に宗教化したものと考えられている。
それはより広範囲の、民族や文化の壁を越えて信仰されていった。
ギリシャ、ローマ、北欧へ行ったグループは、その後のキリスト教の台頭により、
改宗していったようです。
宗教は、政治勢力の一面もあり、その場所に定住した人達が、適者生存するために、
ダイナミックに変化していく面もあるようです。
日本では、元々、八尾万の神がいて、神道中心だったわけですが、
保守勢力の物部守屋と新興宗教・仏教を信仰する蘇我一族・聖徳太子の勢力が、
八尾一帯で、宗教戦争がありましたが、
結局、七五三は神道で、お葬式は仏式(92%)でというように、
「和を以て、貴しとなす」という国民性もあるのでしょうが、神仏を同時に信じている
ような社会もあります。
イラン地域はその後、アラブからのイスラーム勢力の侵入を受け、
政治的に、ゾロアスター教は、排斥され、徐々にイスラム化されていった。
その後、ゾロアスター教徒たちは迫害されながらも、一時は、近世のサファヴィー朝に
なり自由を与えられたが、徐々に、滅びて行き、インド等に移住していった。
因みに、インドのタタ財閥も、ソロアスター教徒で、イランからの帰化人とされています。
私の感想:
アーリア民族と言っても、歴史の移住の中で、
その土地の文化、状況に対応して行ったようですね。
インド・アーリア人とイラン・アーリア人の対比はなるほどと思われました。
紀元前15世紀ごろ、北方からアーリア人がやってきて土着のドラビダ人と
接触したとき、双方の宗教はどうだったのでしょうね?
紀元前のことだから、両者ともゾロアスター教以前の自然崇拝だったので、
宗教的対立はなかったのでしょうかね
(ドラビダ人からは韋駄天の神が生まれ、アーリア人からはバラモン教が
生まれたと言われますが・・・)。
次回は、その2、インドに南北民族戦争はなかったのか、です。
「商」を最下位に持ってきたところがミソだと云われていますね。
インド式だと、坊さんを最高位に持ってきたのが特質でしょうか。
どちらにも共通するのは、時の為政者による「統治テクニック」なところだと思います。
しかし、ここでゾロアスター教が登場するとは思いませんでした。
やはり、宗教のヒエラルキーが現実社会に反映されたものが、こういった差別政策なのでしょうかね。
ブッダは、そういった宗教による洗脳をすべて否定したようです。
大乗になってからは、完全に宗教化しちゃったようですが‥。