インドに北と南の対立、南北戦争はなかったのか?
インドに居る友人とのインドに関する質問のやり取りの
第2回目は、インドに、スリランカのような南北民族戦争はないのか
という疑問に対する答えです。

私の質問:

インドの中の北のアーリア系の人種と南の先に来ていたドラビダ人との抗争です。
インド亜大陸では、この大きな人種戦争はなかったのでしょうか?

今は、スリランカの島国で、南北インド人の代理戦争みたいな形が展開されていますが
(シンハラ人対タミール人)、インド亜大陸では、南北の大々的な民族対立はなかった
のでしょうか?

なかったとしたら、不思議なのですが、
ムガールや英国といった外的侵入者への抵抗でそれどころではなかったのでしょうか?

Sさんの答え:

スリランカでも、3年前迄、タミール・タイガーの抵抗が激しかったが、タミール人は、
イギリス時代の紅茶の労働者として南インドから来た貧しいドラビダ人で、
経済的優位にある、スリランカに北インドから先住していたシンハラ人(アーリア人)との
格差社会に抵抗して、独立を求めていた。

シンハラ人(アーリア人)は、初代の王のウィジャヤが、北インドからランカー島
(スリー・ランカ)にやってきて王位についたが、両親は、人間とライオンの間に生まれたと
されるシーハバーフとシーハシーウァリーであったので、
シーハ(シンハ)の子孫と呼ばれることになったという。

インド国内では、激しい戦の傷跡は、イスラーム勢力による、遺跡破壊が特に顕著です。

例えば、インド最大の遺跡と言われる14-16世紀ヴィジャヤナガル王朝による
ハンピ遺跡は、イスラム勢力による破壊により廃墟となっています。
世界最古の大学と言われ5世紀に作られたナーランダの仏教大学の遺跡も、
12世紀にイスラム勢力により破壊されてしまっている。タリバンによるバーミヤンの
破壊のようなことは、今に始まったことではないのですね。

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さて、本題のドラビダ人とアーリア人との確執ですが、
ドラビダ人は、長いものに巻かれる面従腹背の面で、アーリア人の同化政策と、
封建制度(カースト)を渋々妥協しながら、生き延びてきたようです。

アーリア人の多い北インドでは、皮膚の色違いによる差別を受け入れ、
小作人、私用人、家来のような形で、共生したようです。
命までは取られない、食べさせて貰えるからいいか、みたいな面があったようです。

紀元前1300年頃から、アーリア人は一部地域の一部のドラビダ人を支配し、
階級制度のカースト制を作り出し、アーリア人は司祭階級のバラモンと、
王族・貴族のクシャトリア、一般市民のバイシャを独占し、ドラビダ系の
民族は奴隷階級のシュードラに封じ込められたとされています。

紀元前1000年頃から、アーリア人のガンジス川流域への移住と共に、
ドラビダ系民族との混血が始まる。
一方、元気のいいドラビダ人は、南下を開始したらしい。
そして、インド亜大陸は、アーリアの色合いの強い北インドと、
ドラビダ勢力の色合いの強いドラビダ勢力で、住み分けていたような面もあります。

ドラビダ人は、比較的、目じりも優しく、穏やかな性格な人が目立つので、
北インドのドラビダ人は、低い身分でも仲良く共生出来て、
元気のよいドラビダ人は、南インドに南下して、
王朝を建てたりして、住み分けていたようです。

前4世紀 には、タミール(ドラビダ)族は海上貿易で強盛となり、
チェンナイなどの南インドに3つの王国を建てていました。

10~11世紀には、ドラビダ・タミール人のチョーラ朝が急激に勃興、
スリランカからガンジスに至るインド半島部の大半、
ビルマ (ミャンマー) のペグー朝、スマトラのシュリーヴィジャヤ王国までを
支配する大勢力になったこともあります。

しかし14世紀初めには、北インドのイスラム王朝ハルジー朝の南方攻略で南インドの
ヒンドゥー諸国は滅亡の危機に陥りました。
ヒンドゥー文化はその後守り通されましたが、タミール文化は衰え、代わって
テルグ文化が栄えました。

また、北インドのバラモン僧たちがイスラムの支配を逃れてやってきたため、
サンスクリット文化がもたらされた。そのため、これ以降現代に至るまで南インドでは
サンスクリットとテルグ語文化が中心に展開されてゆきました。

19世紀に、インド南部のドラビダ・タミール人が、
イギリスによる紅茶プランテーションの労働力として、スリランカに移住した。
後からの移住者で貧困なため、シンハリ人との格差是正を求めて、独立運動を展開し、
過激派タミール・タイガーは、テロ活動を継続していました。

私の感想:

アーリア人とドラビダ人はうまく住み分けていたのですね。
スリランカの場合は、無理なイギリスによるタミール人の移住が
今の火種になったのですね。
西欧の植民地宗主国のやり方は、アラブをはじめ各地に、
現在までも罪深いものを残しましたね。
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by ucci-h | 2012-09-01 17:44 | 中国・韓国そしてインド | Comments(4)
Commented by muga at 2012-09-02 10:55 x
タミール人の元はドラビダ人なんですね。
そのドラビダ系とアーリア系は、喧嘩しながらも共生して来たってことですね。紀元前1300年からブッダの時代まで7~8百年ありまして、さらに2千年以上も経ってます。考えれば気の遠くなる時間を経過してしますから、その間、記録に残ってない戦争は数知れずとは思います。
でも、同じヒンドゥーならば、住み分けは可能ですよね。

14世紀以降のイスラム教は、結局インドではマイノリティーで終わったのでしょうか。強大なムガール帝国の覇権衰亡も一進一退だったようですが、南北に分類できない戦争は数多かったと思います。
Commented by ucci-h at 2012-09-03 23:09
イスラム教も一部、今のパキスタンでは広まりましたが、インド全土には広まりませんでしたね。インドのおおらかな風土では、戒律のきついイスラムは合わなかったのでしょうか?
Commented by くんたれ at 2012-09-06 19:00 x
タミール人は英国の分割統治政策のもとで、英国人とシンハリ人のあいだでシンハリ人を支配していました。丁度、シンガポールで英国人がマレー人をシナ人を通じて支配していたようなものです。ミャンマーでも英国人はキリスト教の少数民族と使ってミャンマー人を支配していました。
Commented by ucci-h at 2012-09-07 13:15
その地域の少数をもって多数を支配させる。アジア、アフリカで展開された英国の間接統治の典型的なやり方ですね。

北タイのチェンマイをベースにメコン、アセアンの経済、見所、食べ物を日本と比較して紹介します。ただし投資をアドバイスするものではありません。コメント記入は題字をクリック下さい。
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