乗り切ったフンセン第1首相だが、
第2回の選挙は、その5年後の1998年にやってきた。
今回も反対党の得票が上回りそうなことから、
フンセン人民党は、権力基盤の充実にそれ以前から
進めていたようだ。
1996年には、フンセンはなお残るポルポト派の武装勢力の
取り込みに成功、1997年には武力クーデターで
政敵ラナリット殿下を海外に一時追いやります。
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そして、1998年の選挙結果では、
人民党64議席(41%)、ファンシンペック43議席、
サム・ランシー党(SRP)が15議席と、人民党が勝利しました。
反対派のラナリットとサム・ランシーは、すでに1994年に
分裂していました。
選挙の不正を防ぐため、EU(欧州連合)が
選挙監視団を送ったもののあまり機能しなかったようで、
反対党からの選挙委員からの票の数え直しは要求は
退けられ、またカウント前に情報相から実際の結果と
1票違いの“選挙結果”が間違って出てくるなどの
ハップニングもあったようです。
結果に対する反対派からのデモや抗議が出ましたが、
プロテスターは武力で追い払われました。
人民党が多数を占める選挙委員会が、選挙直前に選挙区の
区割りを自党に有利に変更するなどがあったことから、
西欧諸国からも選挙の有効性について疑問の声が上がりましたが、
フンセンの強い力を目の当たりにして、欧米は選挙結果を認めることに
なったようです。
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組閣の段になると、当時の憲法では、3分の2の多数が
必要でした。
ラナリットは、最終的に米国の要請を受け、フンセンと組むことに
なりました。フンセンが首相、ラナリットが議会の議長です。
議会運営は、以前と変わりませんでした。
フンセンは、ポルポト派の兵士を投降させ、国軍に組み入れる
ことにより、バックとなる軍隊を充実させていました。
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次の選挙は、2003年にやってきました。
いっそう選挙戦術に巧みになった与党人民党は
73議席(得票率47%)と前回よりも票を伸ばし、
ファンシンペックの26議席(21%)とSRPの24議席(22%)を
上回りました。
前2回の選挙より比較的平穏に行なわれましたが、
それだけフンセン人民党が巧みになり、力をあまり用いずとも、
勝利できたということでしょう。
当時のエコノミスト誌は、フンセンの勝利を“ストロンガー、ストロンガー”と
報じていました。
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むしろ特徴的なことは、ラナリットのファンシンペック党の
退潮でした。ラナリットはこのあと2005年には党首を解任され、
ファンシンペック党の議席は、2008年2議席、2013年ゼロと
消えていきます。
フランス語の略称の政党が国を治められると王族は思っていたのでしょうか?
王党派に代わって票を伸ばしてきたのが、首都プノンペンで
トップ議席を取ったSRPです。
野党の中では、民主路線を目指すサム・ランシーの方が、
王党派で基盤がぶれがちなラナリットより、選挙の度に
人気が増えてきたとも見れましょう。
しかし、それでもSRPは、農村地帯や東部のベトナム系住民の
フンセン人民党への堅い支持を崩すには至りませんでした。
フンセン人民党は、3度の選挙の洗礼を受けて、1党独裁の
権力基盤を固めて来ました。
(次回へ続く)