明らかに違うものがふたつほどある。
「身体」と「頭の中」である。
林住期になれば、肉体的には明らかにピークを過ぎている。
「こんなことで身体が痛いなんて、若いころにはあったかなあ?」
という思いに囚われる。
老・病・死は、林住期以降の3大忌み嫌われるものとなる。
しかし、誰にも、若い連中にも、これらはいずれやってくる。
これをどうとらえるかだ。
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アンチ・エイジングや若返りの努力もいいだろう。
身体をよく動かし、親からいただいた丈夫な足を使い切らないで
死んでいってはならない。
しかし、むだに若作りしたり、若い世代の流行を追うのは、
無駄足掻きに見えて、本人の思っているように格好良くはない。
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と言って、同期の連中が集まれば、身体のどこが痛いの、
病気とどう闘ったのだの、誰それが亡くなったのの話ばかりでは
気が滅入る。
老・病・死というネガティブ・ファクターをどう受け入れていくか?
林住期のテーマである。
ここで、仏教哲学が助けてくれる。
仏教は、「人生は苦である」と教えてくれる。
老・病・死だけではない。幼少の時にも、人生の働き盛りにも苦は多い。
発想の転換が求められる。
老・病・死は自然の流れであり、毛嫌いすべきことではない。
人間いつまでも死ななかったら、それこそ最大の苦痛だ。
また身体の衰えが出てくるからこそ、身体を鍛える楽しみも増す。
「苦があるからこそ楽が大きい!」と人生を見たい。
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老いて行くことは、人生の衰退と見える。
でも若い頃にはない知恵と人生への新たな見方も出てきて、
自分でも驚かされる。
「なぜもっと若い頃に気がつかなかったんだろう?」という
思いにとらわれる。
ダテに歳をとるわけではない。
病や痛みは嫌なものだ。
最終的には死が救済してくれるにしてもだ。
しかし、ポンコツ車(部品を取り替えるしかない)と違い、
人間の生体の自己治癒力には、すばらしいものがある。
はなから「歳だから・・」と精神的に後退してしまうか、
直してみようと前向きになるかで、反応は変わってこよう。
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死は最終の解決である。
やりとげられなかったことも、人へのうらみも、人からの借りも
すべて水に流してくれる。
高齢社会の中で“孤独死”がニュースになっている。
亡くなる環境は確かに問題だが、人間、孤独で生まれたのだから、
死ぬときは、どこで一人で死のうと、何でもないことだ。
林住期は、ネガティブなことばかりがクローズアップされがちだが、
人生は苦であると思えば、若い時とそう変わりはない。
むしろこの歳まで生き延びたのだから、余裕が持てる。
老・病・死をポジティブに捉えられるよう心を強めたい。
「病気を避け、心を枯らさずに生きるだけでも一苦労なのだ」(五木寛之)。
人間ほんとうに老いるかどうかは、身体の問題ではなく、心の
持ちようのようだ。
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林住期のもうひとつの特徴は、
家住期のときに比べ、頭の中を常に空っぽにして、
中に何を入れるかをいつも変えられるということだ。
働き盛りは、仕事の段取り、人との約束などで頭が一杯、
手帳が空白だと大丈夫かと強迫観念にかられたものだ。
いつも頭の中は、先のことでとらわれていた。
林住期は、毎日が日曜日。
仕事と言う歯車の装置に組み込まれていたのが一転、
野原に投げ出された感じとなる。
ディズニーランドのアトラクションをどう効率的に見て回るかが
得意な仕事人間にも、何もない好きなように遊べる野原では
当初面食らってしまう。
しかし、自由な精神が発揮できるのも、仕事がなくなった
林住期である。
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とは言うが、自由な精神はさまよう。
「小人閑居して不善をなす」で、往々にしてろくなことしかできない。
迷い、退屈し、屈折し、ときに鬱積しがちだ。
歳をとるとうつ病が増えるという。
人間は、人類の誕生以来、大きくなりすぎた脳をもてあましがちだ。
高齢化して、‘濡れ落ち葉’だの‘ワシ族’だの負のフレーズが
空っぽになった脳にしみこんでくれば、だんだんと、その先
希望の持てない高齢期になってしまうだろう。
せっかく仕事の雑事が抜けて空っぽになった頭を
自由に使わないのももったいない。
もっとも人の頭は死ぬまで雑事に追われ続けられがちだが・・。
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20世紀のこの世に、なぜか難関であるはずの生を受け、
ここまで生きてきた。
林住期には、人間や、宇宙や万物を考える
贅沢を味わってもいいだろう。
犬を見て、虫を見て、何を考えているんだろう、
いや考えていないのかな、何を感じて生きているんだろう、
人間と何が違うんだろうと、時々考えてみる。
きのうはカタツムリのこと、今日はミミズのこと・・。
どこで生まれ、いつ死ぬんだろうか?
同じ人間でも、日本の人、タイの人、アメリカの人、それぞれ
考え方が違う。どうしてなんだろう?
他国の人の考え方は、当初違和感を覚えるが、けっこう教わる点も多い。
あれやこれやで、宇宙から地質、動植物、人間哲学と
いろいろ頭をめぐらすと面白い。
いかに常識と言うものが一面しか見ていないことに、
ある日気づかされる。
だからどうなる、何かが究められるというものではない。
開放された脳と精神を自由に遊ばせてやる贅沢は
林住期だからこそ出来ると思う。
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林住期は、一見ネガティブに見えることを乗り切りながら、
精神を自由に飛躍させる、まさに“人生の黄金時代”に違いない。
もっとも、タイ人に言わせれば、「考えすぎるな!」となる。
ちょっと考えただけでもそう言われる。
やたらと考えて日本人らしく“テンション人生”を送るのは、
気楽に人生を楽しむ彼らの哲学からすれば、
あまりほめられた事でもないようだ。
確かに人間の歴史は、錯誤とやり損ないの歴史だ。
「人間は考える葦である」とパスカルは言ったが、
そのことがいつも優れたこととはならないだろう。
いずれにしても、自由な精神を発揮しながら、
林住期を過ごしたいものである。
(おわり)
私も個人的に仏教をかいつまんで勉強してます。
「人生は苦である」、というのは知ってましたが、破滅的ニヒリズムに行かない発想を模索してます。
解釈によっては、「人生なげやりでも良い」となりますか。
「生きてる内が花」なんて、刹那的な快楽主義に走る人も多そうです。
そこをグイッとポジティブに持ってくわけですね。
「死は最終の解決である。すべて水に流してくれる」、という考え方はいいですね。
悩んでも、苦しんでも、命ある限りのものでしかないと。
一つ肩の荷が下りた気分です。
名言の主は、略して「いまる」の父親ですけど。