北タイの地図を見ると直線距離で、チェンマイの
西北西100kmもないメーホンソンだが、遠い。
メーホンソンの街は、東西の山に挟まれた盆地にある。
東側の山なみの南には、タイで一番高い
標高2565mのドイ・インタノンの山があり、
メーホンソンの西側はミャンマーとの国境の山々だ。
このビルマ文化圏の山あいの街に行こうと前から
思っていながら、毎年交通の不便さを理由に
逃してきた。
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しかし今年は、11月下旬の‘ひまわり満開の山’に
標準をあわせて、2泊3日のドライブ旅行で行ってきた。
結論から言うと、こんなにいい田舎町はタイでも珍しく
とても気に入った。
テーマは、「ひまわり満開の山と日本兵の遺跡を訪ねて」
だったが、同時にメーホンソンの街自体とその郊外も
豊かな自然の中でゆっくりした時間が流れ、最高だった。
特に、最近はチェンマイの街には車、住宅が増え、都会化した。
山を越えて行くと、時計の針が数十年戻った別世界だ。
メーホンソンの街中は歩いて回れるし、車も少ない。
人々はゆったりとしていて、親切で優しい。
70年前、日本の兵隊がこの街にやってきたときも
親切で優しい人たちと出会ったと手記などには書かれている。
戦時中、メーホンソンの街の67km南にあるさらに小さな
クンユアムの村に、ビルマへの進攻路を求めて、
5千人以上の日本兵がやってきたのだ。
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タイの最北西部に位置し、ミャンマーと国境を接する
メーホンソン県は、タイの77の県のひとつだが、
人口はわずかに22万人ほどと言われる。
県庁のあるメーホンソン市で4万人、北タイの‘シャングリラ’として
旅行者に人気のパーイでも3万人、旧日本軍に関係の深い
クンユアムも2万人と、山と森林に囲まれた、人の少ない県である。
住んでいる人は、国境の街だから(もともとは国境いなどなかった)、
ミャンマーのシャン州に多いタイヤイの人が多い。
シャン族はミャンマーでの用語で、シャム(タイ)がなまったものだし、
タイヤイ族は、大タイという意味だから、広い意味ではタイ系民族である。
ちなみに、他民族国家ミャンマーで、ビルマ族に続いて多いのは
シャン族(300万人前後か)で、カレン族がこれに続く。
メーホンソンにはカレン族も多いという。
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チェンマイからメーホンソンへ行くルートは
北回りと南回りがある。
北回りは、パーイを経由してメーホンソンまで行く1095号線だが、
距離は南回りより短いものの(全長241km)、日本軍が作ったこの
山岳道路は、カーブとアップダウンの連続で、きついドライブ・コースだ。
メーホンソンの街のナイト・マーケットやお土産屋に行くと、
1864の数字の入ったTシャツやステッカーが売られている。
メーホンソンへの山道は、実に1864のカーブがあるというわけである。
第2次大戦の開戦後、日本軍は、友好国タイからビルマへ攻め入るのに、
南方の泰緬鉄道(バンコク⇒カンチャナブリ⇒ラングーン)と、
この北方の道路(チェンマイ⇒メーホンソン⇒クンユアム⇒ビルマのトングー)
の2つが建設された。
ちなみに終着地トングーは、ヤンゴン(旧ラングーン)の北東75kmにある
バゴー(旧ペグー)管区にある街(現名はタウングー)で、
16世紀なかばタイのナレスワン大王が幼少時人質に取られ、
学んだ土地である。
「タイと因縁深い古都バゴーは今どうなっている? 2013-10-21」
http://uccih.exblog.jp/19855178/
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いずれも1942年に建設が開始されたが、カンチャナブリの泰緬鉄道が
突貫工事で1943年10月には完成されたのに対し、
この北方道路は難工事で、完成したのは終戦近くの1945年と言われる。
泰緬鉄道が、「戦場にかける橋」で有名になり、また工事に狩り出された
連合軍の捕虜などから死者が出たため、戦後「死の鉄道」と過大に
宣伝された(一番多い死者は出稼ぎに来たマレー人だったが)。
これに対し、この北方道路の工事も多くの犠牲が出たものの、
日本軍とタイ人の間で建設されたため、戦後も友好国の関係は
崩れず、対照的である。
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この道路(1095号線)は今では観光道路だが、
“白骨街道”と呼ばれてきた。
工事で多くの犠牲者が出たからとの説もあるが、
日本のビルマからの敗残兵の帰路となり、多くの兵が倒れたからだろう。
この急な山道を走ると、白い道路標識が墓標のように見えてしまう。
「チェンマイの空の下、66年前には敗残兵が 2010-1-25」
http://uccih.exblog.jp/11261905/
ビルマへの進軍路として建設したはずが、実際は敗残兵の帰路となった。
「弓兵団インパール戦記」という本を読むと、ビルマから食糧も医薬品もなく、
負傷兵を抱えて逃げ帰る敗残兵の姿が痛ましい。
英軍機が迫ってくると、「むしろ弾が当たってくれた方がよほど楽だ」
という気持ちが胸に迫ってくる。
現在の我々はチェンマイの地でゴルフをやったり
温泉地に行ったりしていられるが、
もし実際より20年ほど早く生まれていたら、
同じ土地を逃げ延びていたかも知れない。
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無謀なインパール作戦を中心にビルマ戦線での死者は19万人にのぼると言われる。
ビルマ戦線に従軍した30万人のうち、帰還できたのは11万人だったそうだ。
タイに3万人以上が逃げ延びてきたが、7千人以上が
タイ領内で亡くなったと言われる。
北回り道路の話が敗残兵の話になってしまったが、
今回は南回りでクンユアム、そしてメーホンソンに行った。
南回り、それもメーサリアンを経由して北に上ってゆく
この南大回りコースが、チェンマイからの標準コースだ。
もうひとつの南回りで、ドイ(山)・インタノンの南麓から
メーチェムを経由してクンユアムに行く道がある。
この道は、ヒマワリの山麓の道で、チェンマイからクンユアムまで180km、
メーホンソンまでは247km。帰りに通ることにした。
南大回りは、距離は353kmと一番長いが(北周りより100km以上、5割近く長い)、
道が比較的平坦で走りやすい。
メーホンソンの南67kmのクンユアムが最初の目的地だったので、
行きはこのルートで行った。
(その2に続く)
(実状を)知らない東条もアホだが、(官僚に都合の悪い)特定情報機密が一国の首相にまで及ぶ怖さをも意味している。
つい最近ですが、ランパンに行きました。ホントに純朴で親切な人が多かったです。街中でも、の~ンびりした空気が漂ってます。
メーホンソンの町にも興味がわきました。