林住期を過ごす――現役の君へ(まとめ)
「林住期を過ごすーーー現役の君へ」

まとめです。

2013年暮れ チェンマイにて



1.自分のために生きられる林住期


現役の君は、毎日忙しく過ごしているのだろうか。
私は今、‘林住期’を北タイで過ごしています。


古来インドには、人生を4つの時期
(学生期、家住期、林住期、遊行期)に分ける
考え方があると、6年ほど前に出された五木寛之の著書
「林住期」でも紹介されています。

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今や人生の長寿化が進み、人生100年に迫っているのだから、
この4期を25年ずつに分けて考えてもいいだろうと彼は言っています。
最初の25年の学生(がくしょう)期は、親や世間、学校や先輩に
いろいろ世話になり、主に教えてもらう時期。


次の家住期は働き手となって、家族や子供を養い、
世の中に貢献する時期。


そして、林住期にいたれば、もはや社会や他者への貢献から
開放され、貴重な生を受けた自分の人生を自分のために生きる時期と
五木氏も言っている。


2.イメージだけだった‘林住期’


チェンマイに6-7年前から暮らしを始めたのも、リタイヤして自分を
見つめて生きる「林住期」での暮らしをしたいからと自分でも思っている。
しかし、この林住期、言葉の割には、具体性にいまひとつ乏しく、
試行錯誤でここ5年ほど過ごしてきたといったところだ。


イメージ的にはある。
世間のつきあいからやや失礼し、鳥や花や虫や動物に囲まれて
暮らすのが、林住期のイメージだ。
まるで仙人生活のようだが、車の増えたチェンマイの街に住んでいるので、
これは少し現実離れしたイメージとなる。


イメージだけにとらわれて、‘林住期’生活をおくってきたが、
5年たって、林住期の生き方について、なにか少し目覚めてきたような気がする。
林住期だけをイメージするのではなくて、学生期、家住期との
比較で、人生全体の中での位置づけが欠けていた。


3.働き盛りが人生のピークで林住期はたそがれ時か?


先進諸国、ことに日本は高齢社会に入った。
歴史上今までになかったことだから、いろいろ無理解や
軋轢も世代間で生じるはずだ。


戦後の日本の高成長に寄与したはずの団塊の世代は
今や高齢化団塊となっているから、若い世代からは
時にうっとうしく「おじん、おばん団塊」と見られるだろう。


人生は、働き盛りである「家住期」が黄金時代に見える。
仕事で重要なポストにつき、肩書きを持ち、収入も多い。
そして、仕事柄、人とのつながりも多く、体力もなお壮年期だ。

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これに対して、「林住期」となると、まず体力が落ち、
収入も減り、人脈も細り、人生の“たそがれ時”と映る。
林住期はネガティブな面が表面に出やすい。


しかし、家住期が人生のピークで、林住期は下り坂なのか?と
五木寛之は疑問を呈する。
「林住期こそ人生の黄金時代ではないか」と彼は見る。


4.家住期と林住期、どちらが苦労が多いか?


家住期がいいか、林住期がいいか比較してみてもしかたない。
物事には、プラス面とマイナス面がある。
林住期のネガティブな面は上に書いたようなことだが、
家住期にだって、客観的に見れば、マイナス面も目立つ。


「いつも時間に追われている」、「体調が少し悪くても、朝勤めに
出なければならない」、「職場で気の合わない人間とも付き合わねば
ならない」、「仕事の先行きにリスクがつきまとう」、
「家を顧みないと家族から疎まれる」・・・等々、家住期には苦労がつきまとう。


どちらが黄金期かを競い合う議論ではない。
ネガティブな面ばかり見ていたら、家住期も林住期もミゼラブルな人生だ。
ポジティブな面をありがたく思えば、どちらも黄金期となる。


学生期、家住期と比較すると、
林住期が浮かび上がってくる。
年代によって、生き方は変わって行って良いようだ。
いや、変わるべきかもしれない。


5.林住期:その日の気持ちで生きられる幸せ


「林住期も家住期に比べれば、けっこういいもんだ」という意識は、
リタイアした5~6年前からあった。


「リタイアして北タイに住んでいると、暇でしょう?退屈しませんか?
日本に戻りたくなりませんか?毎日何をしているんです?」と
いったような質問をよく受けたものだ。


その度に、「いえいえ、タイ語やアジアの経済の勉強、ゴルフの練習、
体力の維持、犬や虫とのつきあいなどいろいろやることがあって、
けっこう忙しく、時間が足りません」、
「日本にいるよりこちらにいる方が、生活に新たな発見があって
面白いですよ」と、まじめに答えていたものだ。

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そして、毎日朝起きて、その日の気分で生きられる幸せ、
在職中のように、今日は朝早く仕事に行かなければならないこと
から開放された喜びを味わってきたものだ。


‘退屈’(ひま)と感じられれば、これは最高の幸せとなる。
なぜなら、義務に囚われず、何でもできるからだ。
ちょうど、神様から「さあ、今日の一日、あなたの好きなように
お使いなさい」と白紙委任状をプレゼントされたようなものだから。



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6.北タイに暮らし日本の友人がなつかしい


とは言いながら、やはり何か欠けているものがあることを
うっすらと感じて来てはいた。
ひとつは、気の合った日本の友達だ。


こちらでも、日本人、タイ人、その他外国人の友人は
できたが、やはり長くからのつきあいの気心の知れた旧友はいいものだ。
日本へ帰国したときに会うくらいになった。


特にこちらに長居するようになった当初は、
友人が少ないことが、新しい土地での暮らしの上でも、
楽しみの上でも、ハンディキャップに感じたものだ。


この人間関係不足感は、実はつい最近まで
続いてきたが、5~6年を経て、林住期を改めて
意識することになって、自分の中で何か認識が変わってきた。


折りからインターネットの時代。
インターネットは、人を“つなぐ”ツールだという。
仕事でのつながりよりも、心のつながりを求める
現代人がそれだけ多いということだろう。
‘人とつながっていないと不安でしかたがない’のが
現代人の特徴らしい。


特にインターネット上での「タグド」や「バドゥー」、
「ハイ・ファイブ」、また「フェイスブック」などの
SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)は、
タイ人や欧米人も多く使っており、出会いの場を
提供してくれる。
友達は作りやすい時代だ。


7.働き盛りと林住期で異なる‘人とのつながり’


こちらに来て、SNSは友人のきっかけを作るのに
便利なツールとなった。
そして、これらを使い始めると、友人を増やすことが
あるべき姿のようになってくる(実際、フェイスブックやMIXIは
商売上、そういう仕掛けになっている)。


在職中は、転職も多かったので、人脈は広い方だった。
「顔が広い」のが自分の特徴だった。
もちろん、飯を食べたり、会合に出たり、それなりの努力もした。
だから、リタイアしても、SNSなどを使って、人とのつながりを
太くして行こうという気持ちがあった。


しかし、ここにきて、林住期を改めて考えるとき、
ここに至って人とのつながりを増やすことは、
何か林住期の行き方に逆らって、家住期をよきものとみなし、
悪あがきしているのではないかと思うようになった。


人とのつながりを増やす必要性は、
家住期と林住期では違うのだ。

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もちろん、よき友人はうれしいものである。
ことに異国に住んでいると、日本から訪ねてくれる
日本の友人は、まさに「友あり、遠方より来たる」で
大歓迎で、楽しくなる。


しかし、リタイアして林住期の暮らしの中で、
さらに多くの友人作りが必要だろうかと考え直す。
もともと人付き合いは得意な方ではなく、
「少数のよい友達がいい」派であった。
顔が広かったのは、仕事上必要だったからに過ぎない。


物事には、ポジティブな面とその裏にネガティブな面がある。
少ない親友は貴重だし、友人が多いこと自体は悪いことではない。
しかし、量が多いと、つまり触れる面が多いと、
人間関係は軋轢や誤解、妬みなど面倒なことが生まれやすい。


リタイアして、仕事はもう卒業したのだから、
ここにいたってまで気の合わない人間と付き合うことはないと
決めていても、量が増えれば軋轢が増す。


8.シンプルライフ:人間関係を増やす必要はない


「仕事をしていると良い。新しい知り合いが増えるから」と
よく言う。その通りだが、仕事をこなすために増えたとも言える。
会社を替れば、それまでかもしれない。


リタイアして仕事が無くなったのだから、
余計な知人を増やしたくもない。
ちょうど、食事も体にいいものを質素に食べたい気持ちと似ている。
贅沢な濃い食事は、パリやマンハッタンや銀座で、働いていたとき
十分楽しんできた。


誤解しないで欲しい。別に人間嫌いになったわけではない。
社会に背を向けて、林の中にこもり隠遁生活を
おくろうというのではない。
出会いがあれば挨拶はするし、人と逢ったらその人のいい所を
汲み取るのも楽しみだ。
でもあまりややこしい人間関係に積極的に入りたくはないし、
入る必要もないということである。



人間関係、「人とのつながりがなければ、孤独でさみしい
生活になる」という怖れが、世の中では喧伝されている。
でも本当にそうだろうか?そんなことはない。
日本でも、一人暮らしでせいせい暮らしている人は多いはずだ。
‘お一人様’は、自分の好きなときに好きなことが出来る。


現代社会は、システム化されている。
一人で暮らしていても、別に‘孤立’しているわけではない。
娯楽のためのテレビ番組や映画、音楽はたくさんある。
人恋しくなれば、飲み屋でもカラオケでもディスコでも、
いやそれこそSNSを開けば良い。


家住期と林住期での暮らし方の違いは、
面倒だが刺激のある濃い生活をおくるか、
面倒のない最小のもので事足りる淡々とした生活を
志向するかの違いだろう。
年代が変われば、暮らし方も変わっていいはずだ。


9.自分の自由な精神を開放する“人生の黄金期”


我々は、「個の独立」をあまり奨めない教育を受けてきたようだ。
集団で波風立てず仲良くやっていくことが最善とされた。
自分の好きなように生きることは、‘自分勝手’、‘身勝手’と
みなされ、はなから受け入れられない風土の中で育った。


リタイアしても、なかなかその先入観から抜けられないが、
林住期は自分を解放し、貴重な生を受けた自分のために生きる
“黄金期”にしたいと思う。



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10.身体の衰えをどうとらえるか?


家住期と林住期を比べたとき、
明らかに違うものがふたつほどある。
「身体」と「頭の中」である。


林住期になれば、肉体的には明らかにピークを過ぎている。
「こんなことで身体が痛いなんて、若いころにはあったかなあ?」
という思いに囚われる。


老・病・死は、林住期以降の3大忌み嫌われるものとなる。
しかし、誰にも、若い連中にも、これらはいずれやってくる。
これをどうとらえるかだ。



アンチ・エイジングや若返りの努力もいいだろう。
身体をよく動かし、親からいただいた丈夫な足を使い切らないで
死んでいってはならない。


しかし、ムリに若作りしたり、若い世代の流行を追うのは、
無駄足掻きに見えて、本人の思っているように格好良くはない。

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と言って、同期の連中が集まれば、身体のどこが痛いの、
病気とどう闘ったのだの、誰それが亡くなったのの話ばかりでは
気が滅入る。


老・病・死というネガティブ・ファクターをどう受け入れていくか?
林住期のテーマである。


11.仏教哲学は「人生は苦」だと教えてくれる


ここで、仏教哲学が助けてくれる。
仏教は、「人生は苦である」と教えてくれる。
老・病・死だけではない。幼少の時にも、人生の働き盛りにも苦は多い。


発想の転換が求められる。
老・病・死は自然の流れであり、毛嫌いすべきことではない。


人間いつまでも死ななかったら、それこそ最大の苦痛だ。
また身体の衰えが出てくるからこそ、身体を鍛える楽しみも増す。
「苦があるからこそ楽が大きい!」と人生を見たい。


12.心の持ち方が十二分に補完する身体の‘衰え’


老いて行くことは、人生の衰退と見える。
でも若い頃にはない知恵と人生への新たな見方も出てきて、
自分でも驚かされる。


「なぜもっと若い頃に気がつかなかったんだろう?」という
思いにとらわれる。
ダテに歳をとるわけではない。


病や痛みは嫌なものだ。
最終的には死が救済してくれるにしてもだ。


しかし、ポンコツ車(部品を取り替えるしかない)と違い、
人間の生体の自己治癒力には、すばらしいものがある。


はなから「歳だから・・」と精神的に後退してしまうか、
直してみようと前向きになるかで、反応は変わってこよう。


13.ほんとうの衰えは、身体からではなく心から


死は最終の解決である。
やりとげられなかったことも、人へのうらみも、人からの借りも
すべて水に流してくれる。


高齢社会の中で“孤独死”がニュースになっている。
亡くなる環境は確かに問題だが、人間、孤独で生まれたのだから、
死ぬときは、どこで一人で死のうと、何でもないことだ。


林住期は、ネガティブなことばかりがクローズアップされがちだが、
人生は苦であると思えば、若い時とそう変わりはない。
むしろこの歳まで生き延びたのだから、余裕が持てる。


老・病・死をポジティブに捉えられるよう心を強めたい。
「病気を避け、心を枯らさずに生きるだけでも一苦労なのだ」(五木寛之)。
人間ほんとうに老いるかどうかは、身体の問題ではなく、心の
持ちようのようだ。



14.家住期と違い、空っぽにできる頭の中


林住期のもうひとつの特徴は、
家住期のときに比べ、頭の中を常に空っぽにして、
中に何を入れるかをいつも変えられるということだ。


働き盛りは、仕事の段取り、人との約束などで頭が一杯、
手帳が空白だと大丈夫かと強迫観念にかられたものだ。
いつも頭の中は、先のことでとらわれていた。


林住期は、毎日が日曜日。
仕事と言う歯車の装置に組み込まれていたのが一転、
野原に投げ出された感じとなる。


ディズニーランドのアトラクションをどう効率的に見て回るかが
得意な仕事人間にも、何もない好きなように遊べる野原では
当初面食らってしまう。


しかし、自由な精神が発揮できるのも、仕事がなくなった
林住期である。


15.‘肥大した’脳に何を入れるのか


とは言うが、自由な精神はさまよう。
「小人閑居して不善をなす」で、往々にしてろくなことしかしない。
迷い、退屈し、屈折し、ときに鬱積しがちだ。


歳をとるとうつ病が増えるという。
人間は、人類の誕生以来、大きくなりすぎた脳をもてあましがちだ。


高齢化して、‘濡れ落ち葉’だの‘ワシ族’だの負のフレーズが
空っぽになった脳にしみこんでくれば、だんだんと、その先
希望の持てない高齢期になってしまうだろう。


せっかく仕事の雑事が抜けて空っぽになった頭を
自由に使わないのももったいない。
もっとも人の頭は死ぬまで雑事に追われ続けられがちだが・・。


16.鬱積や雑事を詰め込まず、万物の生き様に頭を巡らそう


20世紀のこの世に、なぜか難関であるはずの生を受け、
ここまで生きてきた。
林住期には、人間や、宇宙や万物を考える
贅沢を味わってもいいだろう。

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犬を見て、虫を見て、何を考えているんだろう、
いや考えていないのかな、何を感じて生きているんだろう、
人間と何が違うんだろうと、時々考えてみる。
きのうはカタツムリのこと、今日はミミズのこと・・。
どこで生まれ、いつ死ぬんだろうか?


同じ人間でも、日本の人、タイの人、アメリカの人、それぞれ
考え方が違う。どうしてなんだろう?
他国の人の考え方は、当初違和感を覚えるが、けっこう教わる点も多い。


あれやこれやで、宇宙から地質、動植物、人間哲学と
いろいろ頭をめぐらすと面白い。
いかに常識と言うものが一面しか見ていないことに、
気づかされる。


だからどうなる、何かが究められるというものではない。
開放された脳と精神を自由に遊ばせてやる贅沢は
林住期だからこそ出来ると思う。


17.「あまり考えすぎない」というタイ人の知恵


林住期は、一見ネガティブに見えることを乗り切りながら、
精神を自由に飛躍させる、まさに“人生の黄金時代”に違いない。


もっとも、タイ人に言わせれば、「考えすぎるな!」となる。
ちょっと考えただけでもそう言われる。
やたらと考えて日本人らしく“テンション人生”を送るのは、
気楽に人生を楽しむ彼らの哲学からすれば、
あまりほめられた事でもないようだ。


確かに人間の歴史は、錯誤とやり損ないの歴史だ。
「人間は考える葦である」とパスカルは言ったが、
そのことがいつも優れたこととはならないだろう。


いずれにしても、自由な精神を発揮しながら、
林住期を過ごしたいものである。


(おわり)




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by ucci-h | 2013-12-27 12:28 | アジア的な生活 | Comments(0)

北タイのチェンマイをベースにメコン、アセアンの経済、見所、食べ物を日本と比較して紹介します。ただし投資をアドバイスするものではありません。コメント記入は題字をクリック下さい。
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