武田家終焉の地を行く

戦国時代、天下取りまでもう一歩だった
甲斐の武田家の最後は悲惨だった。


大御所の武田信玄亡き(1573年)後、
武田家第20代として家督を継いだ武田勝頼だったが、
長篠の戦(1575年)で織田・徳川連合軍に敗れ、
その7年後の天正10年、信長が本能寺で亡くなる3か月前、
天目山に敗走し、19歳の妻北条夫人、16歳の息子の信勝とともに、
命を絶った。



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今回の山行きは、このわずか最後は50人足らずとなった
武田家の逃避行の行程を追う形となった。


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西方の勝沼方面から逃げてきた勝頼一行は、
大月の岩殿城をめざすが、小山田信茂の離反に遭い、
笹子峠を越えられず、ここ日川渓谷沿いを登り、
天目山上の武田家先祖の信仰の篤い
禅寺、栖雲寺(せいうんじ)を目指した。



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この天目山の上までたどり着き、
討死、ないし自刃したのかと思っていたが、
行く手を阻まれて山の上まで行けなかったのだ。
しかたなく、ふもとの田野まで戻って、
そこで、討死ないし自刃したようである。



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亡くなった場所の少し上に、
徳川家康がすぐに菩提寺を建て、いま「景徳院」と呼ばれ、
勝頼(享年37歳)、継室北条夫人(19歳)、嫡男信勝(16歳)の
墓が並んでいる。
春のおだやかなこぼれ日の中、静謐な丘の上の墓所だ。



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日川渓谷の水が下ってきたこの山間の
静かな地で、20代続き、風林火山の名を
轟かした武田一族が、信玄死してわずか9年で
この地で滅亡した。
何ともはかない武家の最後である。



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信玄の4男で家督を継いだ勝頼の評価は分かれるが、
財政をきつくし、税負担を増やし、最後には人心が離れて行った
ことをみると、大将としての器が足りなかったのかもしれない。



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四月半ばのこの時期、山間には、桜も残っており、
新緑の緑が目立ち始めていた。
天正10年3月11日、今でいえば1582年4月13日。
彼らも最後に桜を見たのだろうか?
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by ucci-h | 2017-04-29 12:17 | アジア的な生活 | Comments(2)
Commented by muga at 2017-04-30 00:58 x
武田信玄の頃はプロの戦闘集団を持たなかったと読みました。つまり武士が農家を兼業してたので、田植え時期なんかは戦闘を中断したそうですね。
それを覆したのが信長で、365日いつでも戦闘可能なプロを組織した事で、それまでの常識をひっくり返したと。
勝頼は焦ったでしょうね、カリスマ親父時代のやり方が通用しないんですから。
年々勢力を拡大する信長家康連合軍に負けてはならんと、重税までして強兵策に出ざるを得なかったのでしょうか、最先端を行く天才たちを前にして、時代の波に飲み込まれてしまった印象です。
Commented by ucci-h at 2017-05-02 09:37
おっしゃるような状況だったんでしょうね。武装農民からの戦闘集団が、専門の武士集団に代わっていったんでしょうね。

北タイのチェンマイをベースにメコン、アセアンの経済、見所、食べ物を日本と比較して紹介します。ただし投資をアドバイスするものではありません。コメント記入は題字をクリック下さい。
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