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鎌倉の報国寺と鎌倉幕府の滅亡

鎌倉は横浜から20km前後と近い。
横浜から東京都心へ行くより近い距離だ。


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連休の合間、天気を見計らって
久しぶりに鎌倉を歩いた。


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目的地は、鶴岡八幡宮経由の「報国寺」。
ちょうど鎌倉幕府を開いた頼朝の大倉御所の地域を
川沿いに東へ歩く。きれいな滑川には大きな鯉が泳ぐ。


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鎌倉駅の東に位置する竹林の庭が美しい
臨済宗のお寺だ。
思ったより小さなお寺だったが、竹林の緑が
気持ち良かった。


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久しぶりの鎌倉で、3つほど歴史上の疑問が浮かんだ。
①鎌倉の地名はどこから来たのか?
②なぜ、頼朝は、京近辺でなく、鎌倉に幕府を開いたのか?
③頼朝の強力な武家政権はなぜ150年(直系は三代)で滅びたのか?


①鎌倉の地名の由来は諸説あるが、報国寺の前方にある
「浄妙寺」の立て札が目に止まった。


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この寺の裏山に藤原鎌足が蘇我入鹿を討った(645年)翌年、
出生地と言われる常陸の鹿島に行く途中、
末代の繁栄を祈り、身を守った「鎌」を、この地に埋め、
これが鎌倉の地名の由来になったと言われる。


真偽はもちろん判らないが、日本の最大氏族の
影響が、この鎌倉の地にも及んでいることが面白い。


②京都近辺でなく、源氏の先代が住んでいた鎌倉の地に
幕府を開いたのは、よく言われるように、京から離れた
この要害の地に、朝廷の権威とは別の権力を築きたかったと
いうことだろう(この後の室町幕府は京へ戻ったが)。


しかし、山と海に守られたこの要害の都も、1333年、
討幕軍の新田義貞の海周りルート(稲村ケ崎経由)で
攻め込まれ陥落したのは、有名な話だ。


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③鎌倉幕府(後期)を直接滅ぼしたのは、
後醍醐天皇の下での楠木正成や新田義貞の
活躍だったが、鎌倉幕府は、初代頼朝死(1199年)後、
すでに親族間の権力争いに入り、徳川家のように、
2代目以降を固められなかった。


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3代目実朝暗殺(1219年)後、外戚の執権北条氏が
実権を握るが、すでに幕府の弱体化を見た後醍醐天皇の
討幕運動が始まっていた。


結局、「いざ鎌倉」で御家人、関東武士からの恩を得ていた
頼朝親分の鎌倉幕府も、その後の御家人の扱いで
北条執権政治の下、人心が離れ、元寇を経て、
13世紀末には弱体化、1333年5月の鎌倉幕府滅亡
(建武の新政)につながった。


他の強豪勢力の台頭を断ち、弱め、260年続いた
徳川幕府の安定ぶりが、鎌倉、室町幕府、豊臣政権
の早期弱体化から学んだのだろうが、歴史上はよく目立っている。
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by ucci-h | 2017-05-09 08:56 | 日本・米国・欧州 | Comments(2)
  

北タイのチェンマイをベースにメコン、アセアンの経済、見所、食べ物を日本と比較して紹介します。ただし投資をアドバイスするものではありません。コメント記入は題字をクリック下さい。
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