私は、何物でもない。
退職して年の半分以上をタイのチェンマイで暮らす風来坊である。
風来坊と言う言葉が気に入っている。
チェンマイと言っても家を買って持っているわけではなく、
来年また来るかどうかは判らない。
渡り鳥の如く、風に乗って北へ南へと移住しているだけだ。
ちなみに、坊と言うのは、ちょっと困った人という愛称(さくらんぼとかあめんぼとかは愛称)だそうだが、それもぴったりだ。
かみさんはじめ、周りの人たちに迷惑をかけて生きている。
風来坊の坊は、坊さんの坊でもある。
私は仏教徒であるから(ちなみに自分は小さな虫は殺せないし、踊り食いなど怖くてできない弱虫でもある)、坊さんにはなじみがある。
でも、日本の仏教は、浄土宗はじめ、大衆救済を旨とする大乗仏教である。浄土宗では、ただ阿弥陀仏を念じれば浄土に行けるという、やさしい仏教である。利他行を旨とする大乗仏教は、仏教信仰の大衆化には、わが国でも大きく貢献した。
“色即是空”で知られる有名な「般若心経」も、空即是色が論理的に矛盾しないかより、最後に出てくる“羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶(ぎゃてい、ぎゃてい、はらぎゃてい・・)”に見られるような呪文も入り、読経の音楽的リズムでもって、大衆の心に入っている。
悪いと言っているのではない。大衆化が上手だと思っているのだ。般若心経は、耳なし芳一だけでなく、ちびまるこちゃんや、ゴルフ仲間が困った時に唱えるので有名だ。
大乗仏教の優しさは、仏教の大衆化にはおおいに貢献したものの、仏教の哲学的意味合いなどは、専門家だけの難しいものと置きやられ、いつの間にか、わが国では仏教は、葬式仏教(本来は仏教と葬儀は関係なかった・・)と化し、お寺に行くのも法事や葬式の時ぐらいとなってしまった。
大乗仏教は、信仰のやさしさを与えた代わりに、いかに生きるかと言う釈迦の言動から学べる点をおろそかにしてしまったというのは、言い過ぎだろうか。
一方、ここタイでは、スリランカ経由の小乗仏教が日々の生活、彼らの言動に影響を与えていると思い始めている(小乗仏教は、大乗仏教からの蔑称だから、上座部仏教とかテラワーダ(長老)仏教と呼んだ方がいいのだろうが、釈迦から学べることは勉強しなくちゃわからないという意味から、あえて小乗仏教(小さな乗り物)で通したい)。
どちらがいいとか、すぐれているとか言いたいのではない。
タイ人の物の考え方や日々の生き方、そこには我々日本人から見れば、いい加減なところや、だらしなく思われるところも多い。
しかし、そこで是非のベールを取って、その根本を探ってみると、けっこう学べる点が多い。
逆に、我々日本列島に生きる人たちは、タイから見れば物とお金が溢れ、あこがれの国であるはずなのに、なぜか幸せでない生き方が多々見える。
小乗仏教のレンズを通してみると、さもありなんという、ものの見方の違い、我々の考え方の困った点も見えてくる。
後半は、次回に。