執着するな!余計なことを考えるな!
前回第1回は「今を生きる」ことの大切さをご紹介しました。第2の言葉は、その続きで、まるでゴルフの格言のようですが、「執着するな、また余計なことを考えるな」です。
「人間は考える葦(あし)である」と言ったのは、17世紀フランスの数学者ブレーズ・パスカルですが、私はこの後に下の句をつけたいですね。「それゆえ、人間の歴史は、失敗(やりそこない)と錯誤(思い違い)の歴史である」と。
あのアメリカのベスト&ブライテストが(中心のブッシュはおバカさんですが・・)、イラク戦争を仕掛けたとき、今のような混乱を予想していたでしょうか。人間の将来への予測等とは、間違いだらけでですね。
なぜでしょうか。未来は、ムービング・ターゲット(動く標的)であり、しかも、射手である人間も刻々と変わっているのですから、所詮、当てようがないはずです。当たったとすれば、まぐれ当たりですね。僥倖といいます。将来が読めると思うのは、“妄想”と呼ばれるものに他なりません。短い人生、妄想に関わっている暇はないですね。
それでも、なぜ多くの人は将来をあれこれ思うのでしょうか。それは、今を生きることに集中していないので、つい将来が不安になるからでしょう。人は言います:「老後が不安でねえ」。聞いてみたいですね:「何が不安なんですか?お金ですか?健康ですか?家族ですか?友人ですか?」と。多くの答えはこうでしょう:「そう、すべてひっくるめて、漠然ととても不安です」と。
それはそうでしょう。人間、歳をとっていけば、体にガタがくるし、貯金は減っていくし、友達も亡くなっていく。当たり前のことをなぜ不安に思うのでしょうか。未経験という面も大きいでしょうが。だが、最大の理由は、心配したり、不安に思うことが好きだからです。将来を心配することによって、今の安心を得ていると言ったら、皮相的な見方でしょうか。
最大の不安のもとは、人生には安定などないし、日々自分は変わっていくものだという自覚が薄いからでしょう。
人間は、ゆく川の水の泡の如く、日々変化しつつ流れてゆくのでしょう。逆に、「明日は自分も変わっているからわからない」という楽しみに満ちているはずです。超人ハルクじゃないけれど、変化するのです。
過去、ないし過去からのものに執着するのも、変化を認めたがらないからですね。「彼女とはあんなに愛し合っていたのに・・」過去は過去。彼女もあなたも変化しているのです。ことに男はめめしいですね。過去の妄想を現在に持ち込むと、ややこしいことになりますよ。
過去と将来への妄想を断ち切ると何がいいのでしょう。今現在に集中できます。現在を一層サヌーク・サヌーク(楽しい)、サバイ・サバイ(気持ちいい)で生きられます。生きている喜びを感じられます。
人間は、考えることより感じることの方が得意なはずです。ほら、パットのライン、あれこれ考えて外しているでしょう。入った時は、余計なことを考えずに、感性で入ったでしょう。
まったく考えるなと申し上げているのではありません。人間はいやでもあれこれ考えるものです。あまり考えすぎるなと申し上げているのです。
人間、余計なことを考えていると、大事な感性の力も退化していきます。意気に感じて、今日を、この日を、せいぜい考えるなら1秒先までにして、感じて生きましょう。あなたが、亡くなった後、閻魔様に「人生どうだったい?楽しめたかね?」と聞かれて、「いいえ、前後の事ばかり考えていて、足元はよくわかりませんでした」じゃ、もったいないじゃないですか。
原始仏教は教えています。「生きることは捨てること」だと。また、「人生は一瞬一瞬死んでいるのだ」と。
少々、達観しているように書きました。
でもそうじゃないから、こうありたいのです。