ホーチミンの2日目。
ホテルでゆっくり朝食。
きょうは、午後から市内を巡ってみよう。
シェラトンホテル内にある日本語案内のツアー会社に
午後から4時間の半日市内ツアーを申し込む。20ドル、39万ドン。
次にその足で現地のツアー会社に赴き、明日のメコンデルタの町、
「ミトー1日ツアー」と、明後日の「クチ・べトコントンネル体験半日ツアー」を申し込む。
こちらは、現地のツアー会社で英語なので、2日間合わせて36ドル、70万ドン。
日本語ツアーだと二つ合わせて75ドルかかる。
午後2時、ホテルに迎えのワゴンが来て、
市内ツアーへ。お客は私も入れて日本人4人。
まず、サイゴン大教会と隣の中央郵便局を見る。
フランス統治時代の立派な建物。手前にマリア像。
ベトナム戦争では、サイゴン市内は爆撃を免れたので、
いろいろな建物が無傷で残っている。
その例外が、次に行った旧大統領官邸
(現在は統一会堂という名でいろいろな会合が持たれる会議場)。
ここは、ベトナム戦争末期の75年4月末、北軍・ベトコンの戦車が突入し、
南ベトナム・グエン・バンチュー大統領がヘリで脱出、
ベトナム戦争に終止符を打った場所。
その前に、北・ベトコンの爆撃で西半分を壊され、再建されていた。
従って、今の建物は、フランス時代のものでなく、
ベトナム人の手になる結構モダンなもの。
大統領の執務室や大統領の寝室などが保存されている。
屋上にはヘリポート、地下には戦争司令室、空港へつながる
地下通路と35年前までの状況がしのばれる。
庭のプルメリアの大木が印象的だった。
そのあとは、「戦争証跡(remnants)博物館」へ。
ここでは、ベトナム戦争当時の、米軍の残虐な行為、
また枯葉剤による後遺症の写真が多く展示されている。
命を懸けた従軍カメラマンあってのものだ。
日本の沢田教一(70年カンボディアで34歳で戦死)の
川の中を家族が泳いで逃げる「安全への逃避」(ピューリッツアー受賞作品)が
現在の生き延びた家族の写真とともに掲げてあった。
また、一ノ瀬泰造(73年カンボディアで26歳で処刑)の遺品の
銃痕のあるニコンカメラも飾られていた。
ベトナム戦争では多くのカメラマンが命を落としている。
米軍の残虐な写真もアメリカの従軍カメラマンがいての
ことだった(イラク戦争になると規制が強くなった)。
枯葉剤ダイオキシンの後遺症は、
例のべトちゃん、ドクちゃんといったベトナム人の子孫に
大きな害を残したが、攻めた方の米国人、韓国人も例外ではなかった。
米軍が当初否定していたこのダイオキシンの散布は、
自軍パイロットに、その後手を欠いた娘さんが生まれたことがきっかけで明るみに出たという。
日本人は過去を水に流す国民性か、寛容度が高すぎるのか、1945年3月8日
一晩で死者10万人以上を出した東京大空襲の
博物館はなく、民営の「戦災資料センター」というものしかない
(ちなみにベトナムへの派兵8年間での米軍の死者は5万人強だった。
ダナンヘの海兵隊の上陸が、奇しくも東京大空襲のちょうど20年後の
65年3月8日だった)。
戦争の悲惨さは勝ち負けを超える。
夕方久しぶりにスコールがやってきた。
最後に雨の中、ベンタン市場(チェンマイのワローロットの様な所)に行って
半日ツアーの終わりとなった。
宿に帰って、夜は、旅行代理店のベトナム女性に薦められた
宿の近くの「Wrap&Roll」でライス・ペーパーの巻物を食べた。
チェンマイにはない牛しゃぶの巻物にした。
ベトナム料理は、なんともヘルシーである。
窓際の席で2人のベトナム女性がワインを飲んでいた。
映画もずいぶん作られていますが大抵アメリカ映画でベトコンの捕虜虐待を描いた場面が多かったですね。
やはりベトナム観光には戦争がつき物なんですね。
行ったことなくても都市の名前のいくつかは知っています。
皆ベトナム戦争のお陰です。
学生の頃米軍専用埠頭でアルバイトしていましたから米軍のタンクや武器を沢山見ました。
記憶も新鮮なんでしょうね。