知られているが、戦後、1947年12月9日にインドネシア独立戦争
の中で、オランダ軍によって住民430人が殺された西ジャワの
ラワグデ村(現バロンサリ村)虐殺事件についてはあまり知られていない。
太平洋戦争で、日本軍の進駐によって、一番独立への
刺激を受けたのはインドネシアではなかったろうか。
かつてオランダにより収奪されていた植民地も、日本による
教育制度の実施、軍事教練、そして独立の父スカルノの解放によって、
戦後の独立戦争への下地が出来たといっても過言ではないだろう。
オランダとの独立戦争(1945~49年)のさ中の1947年、
12万人のオランダ軍の武力に圧倒され都市を奪われ、
独立軍はゲリラ戦に移らざるをえなかった中で、悲劇は起こった。
1947年12月9日未明、オランダ軍は、ゲリラ部隊のリーダー、
ルーカス・クスタリオを捕らえるべく、ラワグデ村に侵攻した。
そして、村の男、若者ら430人は、野原に連れ出され、手を頭の後ろに
組まされ、一人ずつ銃殺された。
ソンミ村が女子供を含む無差別射撃だったのに比べて、
ラワグデ村の場合は、ゲリラのリーダーを特定できなかったからか、
村の男・若者全員の射殺となった。
この非戦闘員多くに対する銃殺に対して(近代戦では非戦闘員も
多く巻き込まれるのが当たり前になり、原爆投下のようにもっぱら
非戦闘員を狙った大量虐殺もある)、2011年12月9日、
現地で、64年ぶりにインドネシア駐在オランダ大使が、謝罪した。
このきっかけは、今年9月にオランダの法廷で、国が虐殺の
責任があるという判決が出たからのようだ。原告(もちろんインドネシア人)
10人に対し(うち3人はすでに死亡したが)、2万ユーロずつの賠償金
が支払われる。

(ラワグデの犠牲者の墓に花を撒くオランダ大使。産経ニュースより)
これにより、現地のインドネシア人の生き残りの人や親類たちは、
溜飲を下げ、喜んだと言われるが、なんと、64年も経ってから大使が
ステートメントを読み、20万ユーロを払うだけで、ことが足りてしまう・・・なんと
オランダ人が上手なことなのか、インドネシア人が寛容なのか、と思ってしまう。
日本は、大戦中の大陸侵略戦争全体を(侵略戦争なら西欧の方がよほど
先輩だが)、中国や韓国にお金を払った上で、謝っているのに、
やり方がまずく、何回も謝らされ、なお満足されていない。
好対照である。
ベトナムのソンミ村虐殺に対しては、米国は謝罪などしていない。
軍事法廷を開いて、実行部隊の中尉一人を有罪とした上で
(作戦の指揮官は罪に問われず)、3年後に釈放している。
そのカリー中尉は、41年後の2009年アメリカで謝罪したが、
個人的に悪かったと言っただけである
(オバマ政権のベトナムと仲良くなりたい意図もあったか?)。
戦争大国アメリカのやり方に比べれば、かつての植民地経営の
ベテラン、オランダのやり方は、少しは被害者の遺族の心に
受け入れられたということか?
それにしても・・・。
駆け引きという点では、経験上我々日本人も鍛えてゆかないと、それこそ骨までシャぶられかねないと実感でわかります。(笑)


