クンユアムまでの286km、5時間ほどかかった。
11月中旬から12月初旬まで、メーホンソンの南67kmクンユアムの街から
東へ30kmほど入ったメーウコーの山を登っていくと、
頂上1600mの山一面に、
黄金色のひまわりが山を覆うという。
実際行ってみたらすばらしかった。
大げさに言うと、この世の景色かと疑うほどの壮大さだった。
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ひまわりと言っても、正確にはメキシコヒマワリだそうだ。
同じキク科の植物だが、ヒマワリ属ではなく、ニトベギク(チトニア)属に
はいるようだ。確かに葉の形が違う。
こちらタイでは、「ブア・トーン」(金色のハス)と呼ばれる。
日本ではニトベギク属の名にあるように新渡戸稲造が持ち込んだ
赤いメキシコヒマワリが有名だが、ここクンユアムの丘のものは
まさにひまわり同様の黄金色で一杯だ。
山一面のひまわりの中に身をおくと、往生するなら
こういう花の中がいいと思うほどである。
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この季節、すでに寒季(乾季)に入っているはずなのに、
行った日の午後は、山の気候ゆえ雲が厚くなり、雨が降ってきた。
肌寒くもなり早々に切り上げ、2日後の帰途、午前中にあらためて寄った。
晴天の高原は涼しく、いろいろと新鮮な野菜を山岳民族の人
たちが売っている。
花畑を渡る風を受けて飲むビールの味は一味違う。
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クンユアムの街は、第2次大戦中日本軍の病院なども置かれた
日本に縁のある北タイの小さな街である。
ビルマへの進攻拠点になるべく、5千人以上の日本兵が
やってきて、病院を作り、滑走路も作った。
この街に、昨年、日本兵の遺品を集めて展示した
「タイ日友好記念館」が完成した。
それ以前に、かつてのクンユアム警察署長だった
チューチャイ氏(現在72歳)が、個人的に日本兵の
遺品を1000点以上集め、保存してくれた話は有名だ。
日本兵の鉄兜や飯盒や銃その他を展示した地味な記念館だが、
ビルマ戦線からこの地に敗走して来た日本兵を暖かくもてなして
くれたタイ人と、またそれに友好的に対処したと言われる日本兵達。
悲惨な戦争の中で、心温まるエピソードが残るのはありがたいことだ。
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タイの娘と日本兵のロマンスでは、「メナムの残照」(クーカム、運命の二人)が
有名だ。タイ人ならコボリ大尉とアンスマリンの悲話を誰でも知っている。
コボリほど有名ではないが、この北タイのクンユアムにも
村娘ゲーオとフクダ軍曹の実話が残されている。
フクダ軍曹は、戦いで傷を負い、ゲーオの父親が薬草に詳しかったので、
助けてもらい、ゲーオにも看病を受ける中で恋が芽生えたと言われる。
「北タイの村娘と日本兵の実話ロマンス 2012-8-25」
http://uccih.exblog.jp/16690686/
当時15歳だったクンユアムの娘ゲーオも、
昨年記念館の開館式への出席を前に86歳の生涯を閉じた。
二人の間の子供ふたりはクンユアムにいるが、フクダ軍曹は
1950年に脱走兵として捕まり、バンコクの病院で病死したと言われる。
クンユアムの村娘のロマンスも悲劇で終わっている。
もちろん戦争中のことだから、実際はカレン族の娘たちが
調達されたのだろうとかの見方も出るだろうが、
タイ娘と日本兵のロマンス話は大事にしたいものだ。
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「戦場にかかる橋」のカンチャナブリは、日本軍がいかに捕虜たちを
こき使ったかが過大に宣伝されているのに対し、こちらクンユアムの
タイ日友好は、もっと広められてもいい。
もっとも、今見るこの山あいの小さな平和な村の雰囲気は、
70年前鉄兜と銃剣がやってきた事実と、なんともそぐわない。
それが、こんな小さな村を巻き込む戦争という怪物の正体なのだろう。
記念館の前のムエイトー寺院の境内には、
日本兵の慰霊碑がいくつか建てられている。
明日は日本の領事が見えるとかで、放水車で
清掃していた。
クンユアムから67km北のメーホンソンへの道は
いい道だが、ここもところどころ急坂だった。
メーホンソンの街へ着くころはすっかり暗くなっていた。
(その3へ続く)