ハートヤイのあるソンクラー県は、タイの深南部3県、
マレーシアとの国境のパタニー、ヤーラ、ナラティワット3県への
入り口である。

タイ深南部3県は、ソンクラー県の南部3郡とも合わせ、
今でも外務省の「渡航安全ページ」では、
渡航「危険レベル3の渡航中止勧告」地域になっている。

今回訪れたハートヤイ郡、ソンクラー郡など含めた
大部分のソンクラー県も、「危険レベル2の不要不急の渡航は
止めてください」、になっている。

今回、不要不急の旅行で行ってきたが、街は落ち着いていた。
他の都市より、空港や道路、デパートの入り口チェックが
目立った程度だ。バンコク(レベル1)の方が、よっぽど危ない。
だいぶ安全になったと肌で感じたが、外務省は保守的な
スタンスを継続しているのだろう。
実際、ハートヤイの街でも、2012年4月に町の中心にある
33階建てのリーガーデンズプラザで地下駐車場での
車両爆弾事件があり、3人が死亡、23人が負傷した。
それから7年たっている。
タイの深南部での反政府暴動は、2000年代に入って表面化し、
歴代タイ政府の頭痛の種だった。
最盛期は、2006~7年。年間770人以上、一日平均2.12人以上の
死者が出ていた。
タクシン政権末期から、プラユット・クーデター政権の頃である。
2004年から2015年までの12年間で、バンコクポスト紙によれば、
15,374件(一日平均3.5件)の反政府暴動が起こり、
死者6,543人(一日平均1.49人)、負傷者11,919人を出している。
最大の被害者は、タイ人側ではなく、現地に住むイスラムの住民たちであった。
タイの深南部は、13世紀ごろ成立したイスラム系の「パタニー王国」の地
であった。タイでスコータイ王国ができたころだ。
建国の君主であるスルタンのイスマイル・シャーが「パタ・ニー!
(土地の言葉で、この海岸!)」と叫んだので、パタニー王国になったそうだ。
スコータイ王国、続くアユタヤ王国へ朝貢していた。

16世紀末から17世紀半ばまでの4女王の時代が
パタニー王国の最盛期。
中国への交易地として、華人の商人が増え、栄えた。
しかし、4代目の女王の死後、混乱期に入る。
そして、1688年、以前からマレー半島に眼をつけていた
シャムのアユタヤ朝(この世紀のはじめ、ナレスワン大王が
ビルマから覇権を奪回)に侵入される。
これが、現在のタイ領の始まりか。
1767年、アユタヤ朝がビルマの逆襲により滅びると、
パタニー王国も独立を取り戻すが、その後タクシン王が
ビルマをやっつけ、現在のチャクリー王朝(バンコクのラーマ王朝)に
つなぐと、1785年、再びシャムの傘下に入ることになる。
1826年に結ばれたイギリスとシャム(ラーマ3世)の「バーニー協定」
(英麺戦争下、対ビルマ協力)で、シャムは、イギリスにパタニー及び
北マレーの他の4州が自国のものであることを認めさせた(イギリスは
ペナン島を正式に獲得)。
イギリスは18世紀末よりマレーに食い込んでいたが、この2年前に
オランダとの協定でマレー半島を自国の植民地にしていた。
そして、現代タイの骨格を作ったラーマ5世(チュラロンコーン大王)に
よる19世紀末の中央集権制度化のもとで、この地の王も廃止され
シャムの1州となった。

他のマレー4州(ケランタン、トリンガヌ、ケダ、ペルリス)は、
その後アヘン戦争などで力を増したイギリスとの
の「バンコク協定」(ラーマ5世晩年の1909年)により、
シャムの独立を維持すべく、イギリス領マラヤに割譲される。

600年ほども続いてきたマレー最古のイスラム王朝であるパタニー王国も、
1902年に消えたわけだが、
この王国は、南のマレー領のクランタン州と言葉も共通で血縁もある。
いわばこのバンコク協定により国境で切り離されたわけであり、
これが20世紀以降のタイ離脱反乱の元となる。
中東などでもそうだが、大英帝国の勝手な植民地の国境の線引きにより、
その後に大きな禍根を残す例となった。

第2次大戦の日本軍の英領マレーへの進駐が、この深南部反乱を
いっそうこんがらがらせることになる。
タイ、マレーへの日本軍の進撃に対して、
軍事力の少ないマレーのイギリス軍は、マレー人の
人力、インテリジェンスを活用しようとし、南タイの
反乱分子に約束する(タイは最初枢軸側日本に付いた)。
「英軍を助けてくれれば、戦後、タイ領からの離脱を手助けする」と。
1943年の“紳士協定”である。

しかし、戦後、この約束は反故にされる。
文書のない口約束であり、しかも英国中枢の意思とは別の
現地の司令官との約束だったからと。
タイ領内のマレー人は、イギリスに裏切られたかっこうになる。
戦勝国側についたのに、イスラム・マレー人がその後も南タイ領から
離脱できなかった大きな背景は、戦後の東南アジアにおける
共産勢力の拡大があった。

これを抑えるために、タイはマレーと対共産という協調路線を取り、
南タイのイスラム圏に対するマレーシアからの吸引は抑えられた。
もともと、マレーは連邦スルタン国家であり、首都クアラルンプールの
タイ深南部に対する意識は、マレー北部の州のそれに比べれば薄い。
1957年のマレーシア独立後、60年代~70年代と
タイ深南部でも自主独立の機運が盛り上がり、
武装組織も複数できて、分離独立運動が活発化した。
しかし、80年代以降は、タイ政府の軍を核にした処々の懐柔政策により、
安定していった。
これを壊したのが、2000年代初頭首相になったタクシン政権だった。
治安権限を軍から自分の出身である警察に切り替え、強硬策で
深南部に臨んだため、治安は悪化したといわれる。
イスラム過激派と結び付けたり、麻薬撲滅と絡めたりして
イスラム住民の反発を買った。
2000年代に日常茶飯事だった暴動が、
ここ数年、2016年以降、少なくなってきている。
死者数だけ見ても、以前の年平均545人以上から、
2016年116人、2017~18年も減少と、減ってきている。

なぜか?
マレーシア政府も乗り出してきたことや、タイが
タクシン派から軍事政権になったことや、市内の検問が
厳しくなったことなどもあるが、
タクシン時代の挑発、強硬策のもたらした対立激化が
緩んできたからだろう。

この先はわからないが、タイ政府もこの地への開発・投資を
活発化させる意向であり、2000年代の殺し合いは
当面下火になりそうだ。
タイの深南部の問題でその2は終わってしまった。
次回その3では、ハートヤイ、ソンクラーの現代を
記したい。
(その3に続く)


